自分の名前の由来について興味を持つことは、誰でも一度くらいあると思う。

私が自分の名前について”本当の由来”を知ったのは、20代後半、

母の一人暮らしのマンションだった。



君の名は。

大人になってからの私と母の関係は、親子というより友達のような関係だった。

二人で一緒に野球を見に行ったり、居酒屋で恋愛論や結婚観について話をしたり。

そんな関係。
(大抵は終盤になるとお互い泥酔するので最後はほとんど記憶に残らない)



ある日、母の住む吉祥寺のマンションでPCを設定していた時のこと。

私が知らない男の人からのメールが目に留まった。

別に読んでも良いと言われたので(ちょっと悪い気もしつつ少し興味はあったので)
さらっと流し読みをすると、

そこには、休暇で訪れた那須高原から母宛に手紙を送ったこと、

その手紙を送ったのは(男性の)妻も知っているということ、

それに加えて、母の健康を気遣う言葉が、季節の挨拶を含めて綴られていた。



聞けば昔、母が務めていた専売公社(現在のJT・日本タバコ産業)の同僚で、

その人の名は”かずひろ”と言うのだそうだ。

そして私の名前はこの人から名付けたのだという、脳天に釘バットを振り下ろすような衝撃の事実を、

「ご一緒にポテトも付けときました」的な緩いノリで教えてくれた。



衝撃。

でも私としては驚きはあったものの、悲しく感じることはなかったし、  

むしろ嬉しいような気持ちを感じていた。



母と専売公社

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いのしし年で「You’ll never know unless you try」が口癖の母は、考えるよりも体が先に動くタイプだ。

その生き方は良くも悪くも母の人生に影響を与えてきたと思う。

そんな母の性格を表すエピソードが、新卒で入社した専売公社にある。


先輩社員を前にした最初の挨拶で、いの一番に手を挙げた母は、ホールの壇上に上がった。
そして、タバコ会社に入社したにもかかわらず「私はタバコが嫌いです」と開口一番に言ったそうだ。

会場からは”どよめき”が起こったらしい。
(じゃあなぜ入社したのだという突っ込みを入れたくなるが)

当時の母のあだ名は「モサ(猛者?)くん」だったそうで、

なるほど、こんなあだ名がつけられるのも頷ける。



”かずひろ”さんは母の同僚で、年下ではあるものの車の運転を教えてくれるような優しい人で、

恋仲とか深い関係ではなかったものの、母にとっての初恋のような人で、この人と結婚しようとも考えていた、と教えてくれた。




やがて母は専売公社を辞めてから(これまた唐突に)ニュージーランドへ行くことを決めるのだけれど、

そんな母を”かずひろ”さんは「あなたはそんなに遠いところに行くべきじゃない」と強く引き留めてくれたらしい。

だがしかし、やると決めたことは曲げない母。

結局はニュージーランドへ行き、幸か不幸か私の父と出会い、

おめでた婚で結婚することになる。



”かずひろ”さんは母が結婚してからも、こまめに連絡をくれていたようで、

一度は会えるかどうか、みたいな話もあったらしい。

でも母も忙しくてタイミングが合わず、

結局30年以上、会っていないそうだ。



小さい頃の記憶

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そんな経緯で結婚した母は、

姉と私を産み、育ててくれた。

私の中にある、幼い頃の記憶。

当時は母が父とよく喧嘩しては泣いていたという出来事を覚えている(もちろん暖かい記憶も多分に残っているが)。

私が小さい頃に父が会社を興していたので、それを支えるのに母は大変だったようだ。

ただでさえ大変な子育てに加えて、会社の問題とか、お金の問題とか、

そういった問題が色々と重なり、余裕がなかっただろうことは、想像に難くない。



喧嘩が終わった後に聞こえてくる、

母のやりきれない気持ちを堪えるような嗚咽が、

今でも耳に残っている。



そんな時、大抵私は寝室にいて(雰囲気を察して隠れ籠もるのだ)、

母が泣く声が聞こえてくると、いつも私は祈った。

布団を被って両手を組み、お母さんの涙が止まりますように、と祈るのだ。

それは何もできない自分が感じる辛さを紛らわすための”儀式”のような行為で、

小さい自分にできる精一杯だった。

その”祈り”は届いたこともあったし、届かないこともあった。

最後にその”儀式”をやったのは確か小学校2年生の時だったか。


そんなこんなで、頻繁にギクシャクしていた父と母は、

私が小学校に上がったタイミングで離婚した。



離婚はしたものの、母は家庭に残り、

名字は違えど同じ屋根の下で家庭を切り盛りしてくれた。

今でいう夫婦別姓の家族の先駆けのような形であったと思う。

新学期、新しいクラスになると母から”苗字が違う理由について説明した手紙”を預かり、
担任の先生に手渡した。

学校への提出物の保護者欄には、いつも自分と違う苗字が書いてあったけれど、
それを嫌だと思ったことは一度もなく、おかしいと感じたことさえ無かった。

それが”我が家の当たり前”だったので、別に後ろめたい気持ちや劣等感など感じたこともなく、
誰かから嫌な気持ちにさせられたことも一度もなかった。

そういう自信を「恥じることはない、堂々としていなさい、これが普通なのだ」という態度で、

母は私に持たせてくれた。



思い出は、明日を生きる勇気になる

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そうやって苦労する母の後ろ姿を見て育ってきたので、

母が結婚する以前に好きだった人がいたこと、

その人の名前を私の名前にしたということ、

それを教えてもらって、私は嬉しく感じたのだ。

そして以前にも増して私は自分の名前が好きになった。

母は私が20歳になるまで父と一緒に一つ屋根の下で”家族として”暮らしてくれた。


家族の形を維持するのは楽ではなかったはずだし、

大変なこと、

辛いこと、

我慢しなければいけないことが沢山あったはずだ。

そんな時、母の中に残る昔の思い出は、

きっと母の支えになったのだと思う。

思い出は、生きる勇気を与えてくれる。



それにしても、自分の息子に名前を付けるぐらい想っている人がいるのなら、会いに行けば良いのにと思う。

どちらかの身に何かあってからでは遅いし、会える時に会っておかなければ、私だったら後々後悔してしまうかもれしない(そう思うのは私の人生経験が浅いからだろうか?)。

何度かアドバイスしたのだけれど、母としては会うつもりはないようだ。



私が思うに、きっとその”かずひろ”さんは、

母との思い出を、愛しているのだと思う。

だからそのお礼が言いたくて、もう一度会いたくて、こまめに連絡をくれているのだと思う。

かれこれ30年以上も。



はたしてこの先、2人が再会することはあるのか。

どうなるかはわからないけれど、

第三者の立場としてのかずひろ(私)は最後まで見届けたいと思う。



そしてできることなら、母が生きた人生を、

いつかもう一人の私に伝えることができたら、

そう、思っている。



余談だが、祖父は私の名前に「かずお」と名付けたかったらしい。

名付けの際、おそらく困ったであろう母は漢字を「かずお」としか読めない字で当てて、

読みは「かずひろ」にする、という変則的な方法を取った。

誰も傷つけずにちゃっかり自分の要望を通す、

そんな母のしたたかさも、私は好きだったりする。