10代の頃、愛とは何か、ということが私が知りたい重大テーマの1つだった。
私の家は普通とは変わっていたので、家族という形を作るために、
愛とか恋がどういう形でどうあるべきなのか、という答えを見つけたかったのかもしれない。
愛とは何か、そのきっかけ
愛について考えるきっかけになったのは、
私が中学生の時の担任だった染谷先生の影響が大きい。
先生は新年度が始まった最初の挨拶で「愛」と「恋」の違いについて話をした。
”愛の場合、自分から与えても相手からは見返りを求めないこと、
恋とは自分が与えたとしたら、同じ分、あるいはそれ以上を相手から見返りとして求めるとこと、
すわなち愛は無償のもので、恋とはエゴである。”
というような話だった。
同じような話は先生のホームページでも語られている。
きっと先生は、これから1年間一緒に過ごすクラスメイトに向けて、
他者を思いやり、愛ある行動を持って過ごしなさい、というようなことを言いたかったのだと思う。
「愛とは無償のもの、見返りを求めない」
確かに、一つの観点としてこう考えることはできると思う。
けれど100%見返りを求めないというのは実際はとても難しいはずだ。
人間は大抵何かしらエゴを持った生き物であるから、愛ある行動を取っていたとしても、
心の中では多少なりとも見返りを求める部分が生まれてしまうのは、仕方のないことだと思う。
では少しでも見返りを求めてしまったら、それは愛ではないのだろうか?
私はそうは思わない。
愛と恋は混在している
ここからは私の考えだけれど、
”これは愛、これは恋”というように2極化できることはほとんどなくて、
”混在している”のが普通なのだと思う。
よほど特別な瞬間(今生の別れみたいな)でなければ、
「90%は愛だけど残りの10%は恋」みたいに感じるのが普通なのだと思う。
もちろん愛の割合が100%になるのであれば、それは理想形で究極の形である。
思えば、10代の頃は愛と恋の違いを自分の中に落とし込みつつも、
自分の中で見返りを求めている感情にも気付き、悩んでいたような気がする。
やがて20代になって良い・悪いという判断軸は止めて、
感じることそのものを受け入れるようになった。
感じてしまうことは悪いことではない。
人間はそういう生き物だ、と。
そうやって割り切って受け入れてしまうのは、
理想を追い求めていた10代の頃の自分から見たらつまらない人間に感じるかもしれない。
けれど、感じる感情を否定するのではなくて受け入れられるようになったら、
生きやすくなったことは事実だ。
もちろん現状に甘んじて自分を受け入れ、甘やかしているわけではなくて、
できる限り100%の愛を目指したいと思っている。
常に100%の愛を与えながら生きている人間なんていない。
日々悩み、考えながら、愛ある人間になりたいと試行錯誤する、
それが人間の姿なのだと、30代の今は思う。